離せば赦す

また書き始めました

馬鹿舌自慢

料理は下手なくせに割と安ウマグルメなんか好きなものだから、ややこしい人間なことは充分自覚している。美味しいものが好きだから、上達する気がしない自分の手料理は嫌いだ。酒も飲めないし煙草も吸わないのだから気兼ねなく顔を出せる「場」も周りが思うよりずっと限られていて、いや限られているといっても最終的には自粛をしていてそうなっているのだが友人たちが主催するワイン会だとか日本酒会の類には、出てくるフードもアルコールに合わせたものだから自分も結局楽しめない。同じものを共有して楽しむ会に顔を出すほどの無粋さは持ち合わせられない。それでも彼らは何も憚らず「一人で食べるのさみしくない?」と言い出す連中もいるが、体質とライフスタイルを安易に変えるほど人生は思い通りにばかりはいかない。弱いから飲まないようにしている、なんていう人とも分かり合えないほどには飲めないのだ。食事くらい質を上げたいと思っても贅沢ではないだろう。予算は自分の責任なのだ。

それなりの金額を出して料理が不味いと不快指数が高まるのは確実だ。

例外を書くと、例えば友人の貴重な時間を使って食事するときなんかは味の優先順位は落ちるが、それは食事よりも大切なものがテーブルに乗っているからだ。並べられた料理の良し悪しよりは、メニューを眺めながら「あなたは何が好き?」とか「最近こういう料理を出すお店が増えたね」なんてことを話すのが好きだ。頼む気がないのにメニューを開く癖があるのはこのせいかもしれないが食欲旺盛なわけではない。私ほど料理のクオリティを気にしていない知人だって多いし、その店の食事を目的としなければそんなものだ。

そうはいっても決まった人と「今日は何を食べようか」と話しながら待ち合わせの話をすれば、美味しいものを探そうという意固地が高まる。お金を払った料理が不味いと不愉快な気分になるのは確かだしその傾向が人よりも強い気がしている。

 

そうそう、かつて「俺は幸せのハードルが低いからお前みたいな人間より人生が幸福だと思うんだよね」とか宣ってきた恋人がいた。酒が飲めない人間だったからはじめは付き合いやすいと思ったが、見当違いだった。

私は美味しいものを食べて幸福を感じたい。しかし美味しいものを美味しいと感じて終わらせるわけではないから、味の違いが分からずに何でもかんでも美味しい!と完結させて終わらせたいわけではない。お前の浅くて薄っぺらい人生観と重ねるな。と至極不愉快になった。

私は「これは好きだ」「これは好きじゃない」「これは美味しい」「悪くはないけどもう食べなくて良い」「美味しいと思ったけど硬くなるのが早い料理なんだな」「味付けが薄い」「ポテトは太いより細い方が好き」「マックのポテトはしなしなが好き」「ただの刺身にソースをかけてカルパッチョと謳わないでほしい」「この焼肉屋は安くて美味しいけどタンだけは薄すぎるね」と話し合うことが好きなんだ。そう思うのは何故なのか。食事に限らず、テーブルに乗ったことを考え理解し話している瞬間が好きなんだ。

それを、不味いものも美味しいと感じるから俺の方が幸せ!なんて言いきって人を見下して終わるお前なんかに奪われてたまるものか。お前の方こそ一食の大切さを知らないのだ。と言いたかった。当時目の前にいたその男は私の目も見ることなく上を向いて恍惚と話す男だったから反論するのはやめた。付き合い始めた途端に私の目を見て話すことがなくなり、いつも斜め上を向いていた。嘘つきでありモラハラだったと思う。恋人ではあったが、私のことを愛していなかったと思う。

美味いしか言わない連中なんか大嫌いだ。幸せの総量が大きいと思いこむのは結構だが、私が鳥貴族を美味しく食べるときでさえこいつらは邪魔をしてくるのだろう。せいぜい素材の良さを無視した焼肉のタレにひたひたに浸かった下処理のなっていない牛肉でも食っていればいいさ。

不味い、初体験。

子供の頃は子供らしく偏食で、大してグルメでもなかった。それどころか家族で外食に行き、それぞれ好きなものを注文して両親や姉が「これ美味しいね」「このお店イマイチだね」「なんかリニューアルオープンしてから美味しくなくなったね」など、テーブルに乗った料理について言及しながら食事をするのだが実は私だけその美味しいや美味しくないが全く分からず、分からないから自信もなく適当に頷いていた。ひょんなことから高校生の頃にカミングアウトするに至ったのだがそれはそれは驚かれ、家庭内で審議が入った。

家族の会話に共感できないあたりから自分はバカ舌だと自覚しはじめ、自分の舌をどんどん信用しなくなった。私の箸が進まなくてもそれは美味しくないわけではない。実際、家での食事も小学生の頃は相当時間がかかっていて3時間経っても完食できないこともあり呆れられた。時間がかかることは勿論、外食時は食べきれないことが理由でも残してしまうと家族からは当然のようにお叱りがくる。小学生の自分には飲食店の一食はとにかく量が多かった。スポーツをしていたわけでもないのでお世辞にもよく食べるとは言えない。あの頃の自分に戻りたい。飲食店に入ればハーフサイズがあるわけでもないのにひとつは注文しなければならず、それが食べきれずに残してしまうととかく両親や姉から非難を浴びた。残してはいけないという概念は家族だけではなく当時の学校給食でもご法度だったし、なんなら平成生まれなのに脱脂粉乳みたいな飲み物が出てくる保育園に通っていて拷問のような給食に何十分も時間をとられた。あれは脱脂粉乳だったのだろうか。お昼寝の時間がきても完食を強要されたのは思い出したくない思い出だ。

 

保育園からそんな環境だった上に家族から外食のたびに怒られる羽目になる自分は「とりあえず残さず食べることが食事に対するルールであり最優先だ」と学ぶ。そう課したところで食べきれるはずがないのだが、父が異常に好きで週末のたびに付き合うことになっていたラーメン屋で頼む炒飯が割と好きな食べものの部類だと気づいてからは食べることに意欲を持ち始めた。「美味しく食べていますが胃の容量が限界でした」というアピールはそれまでの自分の態度に不足していたらしく、叱られないということはないがボルテージは下がったように思えた。残さず食べることの意欲ってこんなに違うのだなと実感してからはより自分の胃に厳しく接することとなる。

そんな学びを得てから更にその価値観は覆されることとなるのだが、それはほどなくしてやってきた。小学校5年の頃、何かしら用事のあった姉を迎えに行く前に夕飯をとろうと一見で街の汚い中華屋に入った。当時父はラーメン狂だったから店のジャンルこそ譲らなかったが、ラーメンが苦手で炒飯が好きな私にある程度配慮して炒飯がありそうな店に入ってくれた。そんな配慮を当然のように感じていた心も体も幼かった私は、案の定そこで炒飯を注文した。両親はですよね、アノといえば炒飯だよね、というリアクションしかしない。両親は麺類だったと記憶している。

炒飯という料理が好きらしいと自覚していたが、なんだか後半満腹とは違う意味で苦しくなって残すことも多々あった。それがどういうことなのかイマイチ分かっていなかったがどんどん進みが遅くなり終いには手が止まりそして残すというラストが当然だったし家族はそれを許容したくなかった。今回はどうだろう、なるべく残さずに食べよう。炒飯は私の好きな料理なんだから。そう思いながら提供を待っていると初めて入る店の初めて目にする炒飯が運ばれてきた。

茶色い。茶色い炒飯なんてまぁ珍しいことでないが、何かが違う。油っこくてヌルヌルした茶色。お世辞にも美味しそうとは言えないが、割と正統派の炒飯だろうにどこか個性的なそれ。「ここの炒飯はどうだろうねー」と母や父が呟きながら食べるのは私自身だ。一緒に運ばれた銀のスプーンを聞き手にとって一口目を口に運ぶ。

辛い。

炒飯なのに辛い?

二口食べる。辛い。

カレー味ではない。だが辛い。

塩辛いの部類の辛さなのだが、ただ塩を入れ過ぎたわけでもない独特の塩辛さ。

薬品チックな辛み。薬品って辛いっけ?苦くなかった?そうそう、苦みのある辛さだ。若干人工的な塩辛さ、そういうことではないか。

ネギも辛い。しっかり炒められてるのに辛いネギ。

しかし、私はまだ人生経験のない子供だ。家族が話している美味しいとか美味しくないとか、頷いてはいるが実感したことがない(高校生のカミングアウト前)。ここですぐに残してしまったら私は他に何を食べるのだろう。別に満腹でもなんでもない中でスプーンを置いて残すなんて言い出したら家庭内では戦犯だ。どうせ帰り道にアイス食べたいなんて言い出して火に油を注ぐのだ。この炒飯の油を使って欲しいくらいギトギトというかヌルヌルしているのだがそんなに油っぽいのに辛みが勝つという謎の仕上がりを自分の経験が足りないからだと自分の中で仮定、いや断定していた。

少ししたら父も母も「ここのお店は美味しい?」と聞いてくる。今すぐにでもスプーンを置きたい辛さのある炒飯だが自分の舌を信じていない私は「うーん?」と首をかしげるしかなかった。メニューは違えど父と母は何食わぬ顔でラーメンと食べ進めているのだから、ひとつの店でそこまで大きく味の評判が変わるという想定もしていなかった小学生の私は(やはり自分の舌はまだ経験が足りないな…)と落ち込みながら残さず食べることを目標に黙々とスプーンを動かした。我が家では残した量はお叱りの程度だ。そう信じて一種の脅迫観念のように辛い炒飯を食べた。

 やがてふと顔を見上げると父も母も食べ終わりそうだった。私もいつになくスピーディーに食べ進めた。大人でいえばあと三口といったところではないだろうか。しかし元々辛い物も得意じゃない私はこの初めて出会った「辛い炒飯」という存在に敗北を認めるしかなくなっていた。両親は「けっこう頑張って食べたね」という顔をしている。もうギブアップしてもいいんじゃないか、親は一口くらい味見をしてみたそうだし、と「ちょっともう食べられない…」と敗北宣言をした。案の定親は叱るよりも先にそれまで私が闇雲に食べ進めていたために尋ねることのできなかった「一口ちょうだい」ができたのだった。それがどんなものだと説明できなくなっていた私は両親に辛みの強いそれを授ける。

母が私からスプーンをもらい私が残した炒飯を一口頬張る。1,2秒ほどして目を見開く。割と目が大きいので迫力がある。父は「どうですか」などと感想を聞くが、母は「食べてみて」とスプーンをバトンタッチした。父も同様にその炒飯を口へ運んだが、もう、満面の苦笑い。全力でひきつった苦笑いを我々に見せた。さては不味かったな?この炒飯、これ以上ないくらい不味かったんだな??私は、自分の舌が感じたことは何だったっけかと振り返った。炒飯なのに辛い。単なる塩ではない。ネギも辛い。大量の油のおかげで冷めてくるほどにヌルヌルが際立ってくる。そうか、これが少なくとも不味い炒飯というものか。その瞬間私は初めて「自分でも美味しいと不味いを判別できるかもしれない」と信じ始めた。実際もっと年月がかかったわけだがそれは偏食傾向が強く食わず嫌いしがちだったことも一因だろうから、きっとバカ舌脱出の素養はあるぞ。一般家庭で育てば、とかく不味いものというのはとかく美味しいものにありつく機会よりも子供の頃としては多いのではないか。

母は「よくここまで食べたね」と、父は「偉いぞ…」と、自分がこの店を選んだことに対する申し訳なさを前面に出したようにつぶやいた。あれ?叱られない。成程我が家では原則食べ物は残してはいけないが不味いとみなされたら残しても問題ないとされるのかと知った。名言されたことはなくても確かに存在していたしそれは味覚がある程度家族の中で合致しているという前提があるのだろう。同じ食事で育っていたこともありその確率は高いという確信があったのだろうか、正直今となってはそこには異論もなくはないのだがそこまで大幅にぶれたことがないのも確かである。何故なら私はバカ舌だったから。

そうか、この薬品のような辛さも不味いというやつなんだな?これが不味いってやつか。昔から私は何でもかんでも美味しいと思うより「違いがわかる」ことに喜びを感じたものだった。この激マズ炒飯はそれが食において初めてできた瞬間でもあり、また両親に叱られデフォだったのに叱られず、帰りに結局アイスを買ってもらった夜だったので最終的には悪くない一日となった。ちなみにあの炒飯は父によると「塩と味の素を間違えた上に量もしくじったのではないか。さすがにいつもあの味を提供しているとは思えない」とのことだった。あの店まだあるのかな。

悪い体験をすることで自分の価値観が分かることも人生は多い。そう考えると人生は悪いことばかりではない。だがあの炒飯はもう二度と食べなくて良い。

【雑記】料理が嫌いだ。

そもそも家事が全般嫌いだ。皿洗い以外はやっている時点でストレスが最高に高まる。仕事がストレス解消になっているわけでもなく心療内科に通う(最近は通院の金すらない)私の人生はストレスだらけだ。中でも料理なんてものは何をどうしたら好きになれるのか全く理解できないままである。もうすぐ29歳になる。もう一度書くが理解できないままだ。一人暮らしだしお金はない。仕方がないから自炊をする。材料を買って、段取りを組んで、材料を切って味付けをして、、、私からしたら苦手な数学の方程式実践バージョンでしかない。数学は間違えたら解き直すか放り投げるだけだが料理はクソ不味い仕上がりになった成果物を始末しなければならない。お百姓様…捨ててもいいですか?だめですか?だめですよね。

苦手な料理をはじめると時間がかかる。狭いワンルームのキッチンであることも理由のひとつかもしれないが、姉と2DKに住んでいた頃の今より広いキッチンでも充分要領が悪く動きがトロかったためおそらく自分の器量の悪さが原因だ。苦手なことにこんなにお金と時間をかけて、できた成果物は特別美味しくない。下手したら不味い。一人で黙って食べれば10分そこらで食べきってしまう。リターンが少ない。実際は栄養を考えて作れば違うのだろうし長期的に私の身体を形成していることくらい頭で考えたら分かるのだが、そうは言っても何故そんな試練が日常に組み込まれるというのか。今日はこれ食べたい、これは食べたくない、とりあえずお腹すいたんだけど?という程度の感情はあるものの「自分が食べたいと思ったものを探ると本当に必要な栄養が見えるよ!!」とアメブロにキラキラ女子が書いているようなことは一瞬頭で分かるそぶりを見せても(頭の行為なのに見せるとはこれ如何に)結局は「とりあえず糖質を摂りすぎだって言いたいんだろう?」としか結論づけられない。読む気がないといえばそれまでだが、そんな私に長期的な自炊のメリットなんて実感できるわけがないだろうオリジン弁当の方がよっぽど栄養考えられとるわ、私は馬鹿だから長期的に見ないと実感できない栄養なんてものは感じられないんだよ、といつも同じ結論に至る。きっと不摂生なのだろう。身体は弱いし体力もない。ソイプロテインと漢方と薬に頼るばかりでアメブロキラキラ女子に見せたら怒られる生活をしている。たまに母の実家からもらう野菜は何も調理をしなくても美味しいので、素材の良さは私のような人間にこそありがたいものなのだと実感している、気がする。気と思い出でしかないのだが。

 

好きになったことがないから分からないが、もしかして料理が好きな人は料理をすることが「小さな達成感」になっているのだろうか。

料理は私にそれなりの疲労と小さな失敗作を与えてくる。何をどうしたら上達するのか実は何を読んでどう実践してもいまいち分からない。レシピをなぞって作ってそれなりに食べられる味に仕上がっても、頭も身体もそのレシピを覚えてくれない。毎回毎回、同じレシピを検索してブックマークしておく。感覚で調味料を入れる人は多いかもしれないが、料理が苦手な人間が感覚で調味料を使うとえらい成果物が仕上がることになる。それくらいの自覚はある。

からしたら料理は「小さな失敗の連続」でしかない。そりゃあ毎度毎度傍から見て失敗というほど不味い仕上がりになるわけではない。ないのだが疲れるし、吉野家の牛丼にお金を払う以上の疲労感やストレス、場合によっては材料費に比するとそんなに美味しくない。吉野家の牛丼の方が美味しい。店舗にもよるかもしれないが、私の大方の料理よりきっと吉野家の牛丼の方が皆は喜んでくれると思う。私は嬉しい。東京の京橋店が美味しいらしい。今度行ってみる。

 

とまぁここまで書いても29年近く女性として生きていると呪縛のようにおっさんや既婚者その他迷惑行為をする愚民どもに「え~料理しないの?」「男は胃袋で掴むんだよ」「料理できる女性はポイント高いよ」などと言われ過ぎた。誰が何を言うと私は保育園の頃から今の今までキッチンに寄り付かなかったと母からのお墨付きを貰っているんだ、生粋の料理嫌いだぞ。それでも一人で生きるためにたまには自炊をしているんだ。褒めてくれるわけでもないなら私に料理女子でいることを強いることもできないだろう。何故お前らが審査員みたいな顔をしているんだ。万が一私が料理上手になってみよう。当然お前らに食わせることはないのだが、どうやら彼らはそういうことではないらしい。おそらくこういうことを言う連中はあらゆる人間を「自分の理想」に押し込めないと気が済まないらしいが、私のことを愛してくれる人はきっとそんなことを言わない。料理ができることをそんなにしつこく唱える人間が、わざわざ私の横には並ばないだろう。

料理が好きでいればこんな奴らに下手に好かれていたかもしれない。理想通りの女性は大変だ。美人は辛いよ的なあれか?料理は辛くなったらしないだけだが美人は辛いよと言いながらブスになろうとはしないのであの辺の「美人は辛いよ」なんて所詮その程度のもんだろう。たしかに辛いがブスも連中の想定以上に辛い。

 

ああ、そうだ。料理は辛いよ。だから料理をしない。

 

料理が嫌いなのにちょっとグルメだからより面倒な人生になっているのだがその話はまた別途書きなぐる。

身に覚えのない予約が入っていた

ついさっき、身に覚えのない電話番号から着信。

普段なら一旦スルーして、電話番号を調べてから出るのだが今回は若干着信が長かったこともあり出ることにしてみた。気が向いたというやつだ。

出なきゃよかったということではないが、あまりにも驚いたため急遽ここに書き残すことにした。はじめに書いてしまうと、この電話をかけてきた相手も私も被害者と言わんばかりの、寝耳に水の出来事である。

着信に対応する。誰だか分からないため「はい」と出る。突然「今日、予約入ってるんですけど」と男性がやや張りつめたような声で言葉を走らせた。

予約?

外食の予定は入っていない。

ここ2,3週間は咳喘息だ。食事だろうが、美容室だろうが、勉強会だろうが、咳が酷い日が多くてそんな予定は入れられない。職場と家、ときどき病院。

「何のことですか?」と聞く。

「お名前教えて下さい」と言われる。若干怒り気味の口調だ。

「予約って何のことか分からないんです」と再度伝える。

怒りが収まらないようで、苗字だけ伝える。

 

男性からは「アロママッサージの予約が〇〇〇から入っている」と。

〇〇〇とは、美容系のクーポンアプリである。練習生などが個人でもクーポンを発行できるようで、アプリだけ入れてたびたび開いていた。

しかしこれまで条件は合わず、実際に予約に至ることはなかった。

マッサージと聞いても、まったく身に覚えがない。

「すみません、全く身に覚えがなくて。何のことか分からないんです」と伝える。

サロンの男性は到底納得せず「〇〇〇を開いてみてくださいよ」と強めの口調で訴えてきた。アプリ経由であれば当然サロン側にも履歴は残っているだろうから、でっちあげなんてことはなさそうだった。

 

アプリを開いてみると、驚くことに私のアカウントから3つほど候補をあげた予約の申し込みが入っている。サロン側アカウントはそれに応じて予約を確定させていた。

候補のうち日時を決めたメッセージを入れたサロン側は、返信がない私のアカウントに対し「こちらで確定といたします」とメッセージを送って念押ししていた。

運営会社からは「初めてのご予約ありがとうございます!」と別途でメッセージが入っていたのだ。

 

私は、このアプリを滅多に使用しない。確かに最近一度開いたが、その開くことさえも稀だ。これまで予約に至るサロンに巡り合ったことがなかったため、このクーポンアプリと自分にそこまで当てはまることがなかったのだろう。

そういう経緯もあり、iPhoneには通知許可を入れておらず、サロンや各メッセージに全く気付かなかったのである。

 

全てが寝耳に水だった。

 

予約履歴の画面を見れば、誰もが私が予約を入れたと思うだろう。

ログイン履歴の位置情報も、端末にそんなに細かく残っていない。

 

また、予約はしていないが若干恐い部分がある。

一度私が探した検索条件に沿ったサロンが今回の予約対象になっていた。

ランダムに今回のサロンが引き出されたわけでもなさそうだ。

普段の行動範囲からほど近く、お値段もお安い。

もしも誰かが私のアカウントをハックしていれば、私の検索履歴も同時に見られるだろう。検索条件履歴は保存されていたから当然だ。

 

完全にハックされたのではないかと思うが、位置情報サービス等、iPhoneを調べても分からない。facebookアカウント連携で使用していたため、ほかのサービスも危うい。

 

運営会社には事情を話して問い合わせたが、証拠がない。

同様の事案がないかTwitterGoogleを使用して検索してみたが、全くと言っていいほど見当たらない。

ほんの2000円である。

 

さまざまな状況を加味してすこし考えたが、少なくとも運営会社もサロンも加害側ではなさそうだ。

 

私個人は、自分もサロンも被害者と想定して対応に動く。

だが哀しいことに、サロン側からしたら私のことを加害者と思っているかもしれない。実名も電話番号も一致している当人がとぼけているように見えるだろう。

それは哀しいが、現状はどうにもならない。

 

それにしても、わざわざこんなことを誰がするのか。理由があまり見当つかない。

余程の愉快犯か私への嫌がらせと思えるが、どうにも腑に落ちない。

 

現在運営会社へは問い合わせ中だ。予想に過ぎないが、事実関係が確認できる気がしない。ITリテラシーの薄い私が書く科白ではないが、展望は薄いような気がしている。

そうはいっても、運営会社へ問い合わせたところで進捗がなければ警察への相談も検討しなければいけない。

三連休最終日の夜に雷より強い衝撃が私に落ちた。

 

「好き」に対してなにかを得たくてたまらないから、多分この先も釣りをする。渓流編

「女の子」にしては釣りへ出かけた方だった気がする。少なくとも小中高大と同級生に同意してくれる同性の友人は一人もいなかった、というか今も居ない気がする。海は砂浜、防波堤、たまにプレジャーボートで沖へ。プレジャーボートは実家で定年まで勤めあげてくれた独身貴族の社員さんの私物だったため特段一家に資産はない。川は渓流。下流は目当ての魚がほとんど生息していないため行くことはほぼない。キャンプ場が持っている渓流は釣り堀として営業されていて、渓流の中ではお手軽だ。そういえば新潟のキャンプ場近くにとある釣り堀があってキャンディチーズが餌だった。それでもニジマスがしっかり釣れるから驚きだがニジマス相手にチーズが餌ってむしろ高くついてたんじゃないのかなぁあの釣り堀。

お手軽な防波堤釣りを差し置いて、三十手前になってもやめられないのが渓流釣りである。いざ渓流へ足を踏み入れると、五感を刺激されるという私には到底わからない感覚をやっと感じることがある。むしろ感じてやまないというものなのだろうか。自分の感覚を信用できず断定できないが、やめられなくなったことは事実である。

「川魚なんて美味しくないじゃん」と食べてもないのに文句を言う人も多かった。別に食わなければいいんじゃないの思うが、まぁ塩焼きはいいとして刺身ともなると寄生虫の心配があるため滅多にありつけない。しかし実はそれも最大のリスクヘッジをかけると味は案外いけたりする。一度ニジマスを口にしたがこれが案外美味であり、まぁマスだしね、近海魚に喩えるとなんだろうなぁ。キスの味に近いのかな。しかし皆これを嫌がるのだ。まぁ経験値の高い釣り師に寄生虫のリスクをある程度見てもらった方が良いもので、たしかに川魚の刺身はそうそうお手軽に食べてはいけないのだが。ちなみに釣った川魚の腹を掻っ捌いて内臓を取ってみなさい、一匹でも寄生虫がいたらその川の魚を刺身にするのは止した方が良い。

川も、海釣りと変わらず朝が早い。午前3時起床。場合によっては前夜のうちに家を出て2時間ほどかけて山奥へ向かう。車中泊の日は一面の星空観察もセットであるから望遠鏡も荷物となる。

到着したら車中または横で着替える。渓流釣りのためのウェーダーを着るのだ。あのオーバーオールみたいなやつね。川の中に入らないと進めない場所はいくらでもあるからこれがないと渓流釣りはできない。競技人口が少ないため女性サイズはほとんど一つしかないが、実家に戻れば私専用のウェーダーが用意されている。着替えを済ませたらすぐに渓流に入れるかと思いきやそんなことはなく、まずは(山にもよるが)1時間ほど登山をする。ピッケルとか使うような登山ではないが整備されない山道をそれなりに歩く。たまに大きめのカエルを踏みそうになったりしながら、やっと対面した川へ用意していたワンカップの御神酒を流し、川の神様とやらへ「今日この川へお邪魔します」といった挨拶をするのだ。そして同時に身の安全と豊漁を祈願する。そうしたら爆竹を鳴らして野生動物へ存在をアピールしてやっと釣りが始まる。これが本当に重要で、一度爆竹を鳴らし忘れたまま歩いていたら物音がしたので「ん?」と上を見上げたら、瞬間カモシカが猛スピードで駆け下りてきた。5メートル先のあたりで十秒ほど目が合ったのちまた駆け上がっていったが、人間から見れば子どもでも迫力溢れるサイズで、全力疾走のハーレーにぶつかるようなものだろう。生きている実感が深まる。

その遭遇したカモシカの存在はもののけ姫のそれと似た、神の存在を常日頃信じているわけではない自分から見るともはやあれこそ神様で、神様と言わんばかりの野生動物がうろちょろしているのが山なのだと、その辺に転がってるはずの命がどうして神様に見えて普段すれ違う人間たちはどうして神様に見えないのだろう、リード繋がれた犬や家猫はどうして神様に見えないんだろうと。いやそんなものは当然違うに決まっているし自分が人間なのに人間を神扱いなんて私の性格ではできないんだよと思ったりもするのだけれども、あの野性味とか、あんなに大きな身体をしているけれどきっと私たち部外者である人間のことを恐れて逃げるのだろうとか、熊だったら神であると感じる前に命がなかったかもしれないなとか、上を見上げたらまだ物陰が少し動いたような気がしてああ母親とはぐれさせてしまったのではないかいやきっとはぐれさせたんだと、爆竹を鳴らし忘れたことがこんなにも大変な罪を犯してしまったのだとひどく後悔した。すぐに爆竹を鳴らそうと父が火をつけ投げたのだが投げた場所が悪く川に入ってバンバン鳴る前に火が消えてしまった。もうひとつ火をつけて爆竹を投げた。

幸いそんなスリルは一度きりで、基本的に準備をすれば問題なく山道を進む。渓流を横に歩き続けポイントがあればその都度竿を伸ばす。都会で遭遇したら触れない虫も釣りの餌なら躊躇うことはない不可思議さ。ちなみにブドウ虫である。余ったら山に放ると立派な蛾に成長するのだ。釣れなければまた竿を引っ込めて次へ進む。海と違って木々に引っかかりやすく道中は順調とはいえないが、ひたすらこの繰り返しを7時間ほど続ける。渓流を横目に山道を進むその7時間は退屈とはほど遠く、貴重な山葵を採ったり、蛇とか、なぜかよくいる真っ黒な色の蛞蝓を見つけたりする。真っ黒な蛞蝓は存外綺麗なのだが、都会で見ればおそらくかなり気持ち悪いに分類されるのだろうか。一度足を踏み外して土が崩れ、隠れていたであろうカナヘビを死なせてしまったことがある。翌日行った神社に蛇のお守りを見つけたので罪滅ぼしのように買っていった。道中、山菜を見つけたら「帰りにとっていこう」と覚えておく。一度とんぼの羽化を見つけ、釣りを中断して観察してみたりもした。「知ってはいたけど羽化って本当に時間がかかるな」と感心した。羽が乾いて飛ぶまでに時間かかるんだよなあれは。

帰りは歩いてきた山道をそのまま戻る。先に見つけていたタラの芽やウルイ、ぜんまいなどの山菜を採って帰るのでボウズ(=釣果ゼロ)でも夕飯は何とかなる。これらの山菜はいつも大量に採るので買って食べたことはないが、市販のそれは養殖であり苦いらしい。野生のタラの芽は苦くないぞ。コシアブラはちょっと苦かった気がする。ぜんまいとわらびの違いはあまり見た目に区別できない。

それでもやはり魚が釣れることが嬉しい。渓流に入れば釣れるのは川により、私が入る川のほとんどはヤマメかイワナが多いが、どちらも塩焼きで食べるのがほとんどだ。岩魚は小さめサイズだと唐揚げも悪くない、というか私は唐揚げが好きだ。ヤマメは塩焼きの方が美味い。

イワナ唐揚げ=ヤマメ塩焼き>>イワナ塩焼き>ヤマメ唐揚げ といったところか。

海に比べたら準備が「ふざけんな絶対魚買ってきた方が安く上がるじゃねーかよ」と言わんばかりには非常に大変であるから父に丸投げするし(するな)、トイレもなかなか行けないし、野生動物に遭遇したら死を覚悟するのだが、単なる魚釣りでは終わらないこの渓流釣りが私は好きだ。これが好きだけでは終わらない好きというものなのか。そんな形の「好き」は、私はこれしか持っていない気がする。そうはいっても体力が衰え7時間が5時間になったこともある。好きを続けるのも楽ではないな。それでも、頻度が減っても渓流へ行くことをやめないだろう。今のうちに仕掛けづくりを父に教わらなければならない。あの人は腎臓がひとつしかないから本当に今のうちだ。次は海釣りのことを書く。しかしここまで書いても渓流釣りの醍醐味はどれなのだろう、少し多すぎるくらい沢山あるのだが、あらゆる行動にリターン(得られるもの。体験でも知識でも物でも何だって構わない)を欲しがる私にはうってつけの趣味であることには間違いないのだろうな。好きに対しても何かを得たいなんて強欲な奴だなと思う。ちなみに旅行はあまり好きではない。旅行から何かを会得するスキルが私にはまだない。