離せば赦す

また書き始めました

「好き」に対してなにかを得たくてたまらないから、多分この先も釣りをする。渓流編

「女の子」にしては釣りへ出かけた方だった気がする。少なくとも小中高大と同級生に同意してくれる同性の友人は一人もいなかった、というか今も居ない気がする。海は砂浜、防波堤、たまにプレジャーボートで沖へ。プレジャーボートは実家で定年まで勤めあげてくれた独身貴族の社員さんの私物だったため特段一家に資産はない。川は渓流。下流は目当ての魚がほとんど生息していないため行くことはほぼない。キャンプ場が持っている渓流は釣り堀として営業されていて、渓流の中ではお手軽だ。そういえば新潟のキャンプ場近くにとある釣り堀があってキャンディチーズが餌だった。それでもニジマスがしっかり釣れるから驚きだがニジマス相手にチーズが餌ってむしろ高くついてたんじゃないのかなぁあの釣り堀。

お手軽な防波堤釣りを差し置いて、三十手前になってもやめられないのが渓流釣りである。いざ渓流へ足を踏み入れると、五感を刺激されるという私には到底わからない感覚をやっと感じることがある。むしろ感じてやまないというものなのだろうか。自分の感覚を信用できず断定できないが、やめられなくなったことは事実である。

「川魚なんて美味しくないじゃん」と食べてもないのに文句を言う人も多かった。別に食わなければいいんじゃないの思うが、まぁ塩焼きはいいとして刺身ともなると寄生虫の心配があるため滅多にありつけない。しかし実はそれも最大のリスクヘッジをかけると味は案外いけたりする。一度ニジマスを口にしたがこれが案外美味であり、まぁマスだしね、近海魚に喩えるとなんだろうなぁ。キスの味に近いのかな。しかし皆これを嫌がるのだ。まぁ経験値の高い釣り師に寄生虫のリスクをある程度見てもらった方が良いもので、たしかに川魚の刺身はそうそうお手軽に食べてはいけないのだが。ちなみに釣った川魚の腹を掻っ捌いて内臓を取ってみなさい、一匹でも寄生虫がいたらその川の魚を刺身にするのは止した方が良い。

川も、海釣りと変わらず朝が早い。午前3時起床。場合によっては前夜のうちに家を出て2時間ほどかけて山奥へ向かう。車中泊の日は一面の星空観察もセットであるから望遠鏡も荷物となる。

到着したら車中または横で着替える。渓流釣りのためのウェーダーを着るのだ。あのオーバーオールみたいなやつね。川の中に入らないと進めない場所はいくらでもあるからこれがないと渓流釣りはできない。競技人口が少ないため女性サイズはほとんど一つしかないが、実家に戻れば私専用のウェーダーが用意されている。着替えを済ませたらすぐに渓流に入れるかと思いきやそんなことはなく、まずは(山にもよるが)1時間ほど登山をする。ピッケルとか使うような登山ではないが整備されない山道をそれなりに歩く。たまに大きめのカエルを踏みそうになったりしながら、やっと対面した川へ用意していたワンカップの御神酒を流し、川の神様とやらへ「今日この川へお邪魔します」といった挨拶をするのだ。そして同時に身の安全と豊漁を祈願する。そうしたら爆竹を鳴らして野生動物へ存在をアピールしてやっと釣りが始まる。これが本当に重要で、一度爆竹を鳴らし忘れたまま歩いていたら物音がしたので「ん?」と上を見上げたら、瞬間カモシカが猛スピードで駆け下りてきた。5メートル先のあたりで十秒ほど目が合ったのちまた駆け上がっていったが、人間から見れば子どもでも迫力溢れるサイズで、全力疾走のハーレーにぶつかるようなものだろう。生きている実感が深まる。

その遭遇したカモシカの存在はもののけ姫のそれと似た、神の存在を常日頃信じているわけではない自分から見るともはやあれこそ神様で、神様と言わんばかりの野生動物がうろちょろしているのが山なのだと、その辺に転がってるはずの命がどうして神様に見えて普段すれ違う人間たちはどうして神様に見えないのだろう、リード繋がれた犬や家猫はどうして神様に見えないんだろうと。いやそんなものは当然違うに決まっているし自分が人間なのに人間を神扱いなんて私の性格ではできないんだよと思ったりもするのだけれども、あの野性味とか、あんなに大きな身体をしているけれどきっと私たち部外者である人間のことを恐れて逃げるのだろうとか、熊だったら神であると感じる前に命がなかったかもしれないなとか、上を見上げたらまだ物陰が少し動いたような気がしてああ母親とはぐれさせてしまったのではないかいやきっとはぐれさせたんだと、爆竹を鳴らし忘れたことがこんなにも大変な罪を犯してしまったのだとひどく後悔した。すぐに爆竹を鳴らそうと父が火をつけ投げたのだが投げた場所が悪く川に入ってバンバン鳴る前に火が消えてしまった。もうひとつ火をつけて爆竹を投げた。

幸いそんなスリルは一度きりで、基本的に準備をすれば問題なく山道を進む。渓流を横に歩き続けポイントがあればその都度竿を伸ばす。都会で遭遇したら触れない虫も釣りの餌なら躊躇うことはない不可思議さ。ちなみにブドウ虫である。余ったら山に放ると立派な蛾に成長するのだ。釣れなければまた竿を引っ込めて次へ進む。海と違って木々に引っかかりやすく道中は順調とはいえないが、ひたすらこの繰り返しを7時間ほど続ける。渓流を横目に山道を進むその7時間は退屈とはほど遠く、貴重な山葵を採ったり、蛇とか、なぜかよくいる真っ黒な色の蛞蝓を見つけたりする。真っ黒な蛞蝓は存外綺麗なのだが、都会で見ればおそらくかなり気持ち悪いに分類されるのだろうか。一度足を踏み外して土が崩れ、隠れていたであろうカナヘビを死なせてしまったことがある。翌日行った神社に蛇のお守りを見つけたので罪滅ぼしのように買っていった。道中、山菜を見つけたら「帰りにとっていこう」と覚えておく。一度とんぼの羽化を見つけ、釣りを中断して観察してみたりもした。「知ってはいたけど羽化って本当に時間がかかるな」と感心した。羽が乾いて飛ぶまでに時間かかるんだよなあれは。

帰りは歩いてきた山道をそのまま戻る。先に見つけていたタラの芽やウルイ、ぜんまいなどの山菜を採って帰るのでボウズ(=釣果ゼロ)でも夕飯は何とかなる。これらの山菜はいつも大量に採るので買って食べたことはないが、市販のそれは養殖であり苦いらしい。野生のタラの芽は苦くないぞ。コシアブラはちょっと苦かった気がする。ぜんまいとわらびの違いはあまり見た目に区別できない。

それでもやはり魚が釣れることが嬉しい。渓流に入れば釣れるのは川により、私が入る川のほとんどはヤマメかイワナが多いが、どちらも塩焼きで食べるのがほとんどだ。岩魚は小さめサイズだと唐揚げも悪くない、というか私は唐揚げが好きだ。ヤマメは塩焼きの方が美味い。

イワナ唐揚げ=ヤマメ塩焼き>>イワナ塩焼き>ヤマメ唐揚げ といったところか。

海に比べたら準備が「ふざけんな絶対魚買ってきた方が安く上がるじゃねーかよ」と言わんばかりには非常に大変であるから父に丸投げするし(するな)、トイレもなかなか行けないし、野生動物に遭遇したら死を覚悟するのだが、単なる魚釣りでは終わらないこの渓流釣りが私は好きだ。これが好きだけでは終わらない好きというものなのか。そんな形の「好き」は、私はこれしか持っていない気がする。そうはいっても体力が衰え7時間が5時間になったこともある。好きを続けるのも楽ではないな。それでも、頻度が減っても渓流へ行くことをやめないだろう。今のうちに仕掛けづくりを父に教わらなければならない。あの人は腎臓がひとつしかないから本当に今のうちだ。次は海釣りのことを書く。しかしここまで書いても渓流釣りの醍醐味はどれなのだろう、少し多すぎるくらい沢山あるのだが、あらゆる行動にリターン(得られるもの。体験でも知識でも物でも何だって構わない)を欲しがる私にはうってつけの趣味であることには間違いないのだろうな。好きに対しても何かを得たいなんて強欲な奴だなと思う。ちなみに旅行はあまり好きではない。旅行から何かを会得するスキルが私にはまだない。