離せば赦す

また書き始めました

馬鹿舌自慢

料理は下手なくせに割と安ウマグルメなんか好きなものだから、ややこしい人間なことは充分自覚している。美味しいものが好きだから、上達する気がしない自分の手料理は嫌いだ。酒も飲めないし煙草も吸わないのだから気兼ねなく顔を出せる「場」も周りが思うよりずっと限られていて、いや限られているといっても最終的には自粛をしていてそうなっているのだが友人たちが主催するワイン会だとか日本酒会の類には、出てくるフードもアルコールに合わせたものだから自分も結局楽しめない。同じものを共有して楽しむ会に顔を出すほどの無粋さは持ち合わせられない。それでも彼らは何も憚らず「一人で食べるのさみしくない?」と言い出す連中もいるが、体質とライフスタイルを安易に変えるほど人生は思い通りにばかりはいかない。弱いから飲まないようにしている、なんていう人とも分かり合えないほどには飲めないのだ。食事くらい質を上げたいと思っても贅沢ではないだろう。予算は自分の責任なのだ。

それなりの金額を出して料理が不味いと不快指数が高まるのは確実だ。

例外を書くと、例えば友人の貴重な時間を使って食事するときなんかは味の優先順位は落ちるが、それは食事よりも大切なものがテーブルに乗っているからだ。並べられた料理の良し悪しよりは、メニューを眺めながら「あなたは何が好き?」とか「最近こういう料理を出すお店が増えたね」なんてことを話すのが好きだ。頼む気がないのにメニューを開く癖があるのはこのせいかもしれないが食欲旺盛なわけではない。私ほど料理のクオリティを気にしていない知人だって多いし、その店の食事を目的としなければそんなものだ。

そうはいっても決まった人と「今日は何を食べようか」と話しながら待ち合わせの話をすれば、美味しいものを探そうという意固地が高まる。お金を払った料理が不味いと不愉快な気分になるのは確かだしその傾向が人よりも強い気がしている。

 

そうそう、かつて「俺は幸せのハードルが低いからお前みたいな人間より人生が幸福だと思うんだよね」とか宣ってきた恋人がいた。酒が飲めない人間だったからはじめは付き合いやすいと思ったが、見当違いだった。

私は美味しいものを食べて幸福を感じたい。しかし美味しいものを美味しいと感じて終わらせるわけではないから、味の違いが分からずに何でもかんでも美味しい!と完結させて終わらせたいわけではない。お前の浅くて薄っぺらい人生観と重ねるな。と至極不愉快になった。

私は「これは好きだ」「これは好きじゃない」「これは美味しい」「悪くはないけどもう食べなくて良い」「美味しいと思ったけど硬くなるのが早い料理なんだな」「味付けが薄い」「ポテトは太いより細い方が好き」「マックのポテトはしなしなが好き」「ただの刺身にソースをかけてカルパッチョと謳わないでほしい」「この焼肉屋は安くて美味しいけどタンだけは薄すぎるね」と話し合うことが好きなんだ。そう思うのは何故なのか。食事に限らず、テーブルに乗ったことを考え理解し話している瞬間が好きなんだ。

それを、不味いものも美味しいと感じるから俺の方が幸せ!なんて言いきって人を見下して終わるお前なんかに奪われてたまるものか。お前の方こそ一食の大切さを知らないのだ。と言いたかった。当時目の前にいたその男は私の目も見ることなく上を向いて恍惚と話す男だったから反論するのはやめた。付き合い始めた途端に私の目を見て話すことがなくなり、いつも斜め上を向いていた。嘘つきでありモラハラだったと思う。恋人ではあったが、私のことを愛していなかったと思う。

美味いしか言わない連中なんか大嫌いだ。幸せの総量が大きいと思いこむのは結構だが、私が鳥貴族を美味しく食べるときでさえこいつらは邪魔をしてくるのだろう。せいぜい素材の良さを無視した焼肉のタレにひたひたに浸かった下処理のなっていない牛肉でも食っていればいいさ。